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●映画音は、生活レベルに近いところで
しかも内面性を重視する中で、映像を意識しつつ観客の無意識に働きかえるという、それだけで独立を許さぬ世界である。問題なのは、作曲家がどの音を欲するかではなく、今この瞬間に、その映像が本当に欲する音を選ぶ感性の鋭さである。当然のことながら、武満徹が優れた映画音楽、音響の創り手ということは、武満が優れた現代音楽の作曲家だからではなく、映画への愛着と、映像に対する際立った感性を持っているからにほかならない。
●映画は長い間「音」を求め、トーキーにおいて実現を見た。
「音」は映画に、より表現力と場の証明を与えた。マイクロフォンの出現により、「音」が個としての主張を持ち、想像し得るあらゆる「音」を手に入れることが可能になりつつある一方、近年映画の聴覚的要素が映像の隷属物だと考えられた過去の時代に逆行する傾向の指摘がなされている。
●俳優の発する音声はどうか。
無意味なセリフがいかに映像を阻害しているかは論じられても、俳優の発する音色は興味の対象といまだになっていない。音楽も、単なるバックグラウンドとして映像に妥協してはめ込まれる限り消極的な参加に過ぎないであろう。同様の意味で、環境音が現実音によるリアリティの表明としてのみ使用されている限り、「音」が音声、環境音、音楽としてトータルに映画の中で位置づけられることはできず、芸術性の確保も難しい。今や映画の「音」は新たな局面を迎えようとしている。それは映像と音という2種のメディアを対立させ、一方の優位性を主張することではない。
●クラシック音楽が、衰退と言われながらも
厳然たる権威をどこかで保ち続け、きのうまでの現代音楽があっという間にクラシックに吸収され、温存されていくのは、壮大な歴史の点として現代をとらえることが可能だからである。やがて近代に飲み込まれる長い芸術の歴史の端の端に位置する現代の映画の、しかも構成要素の一部にしかすぎない「音」の方向性を探ることは困難ともいえる。だが、にぎにぎしい技術最先端の衣を身にまとい、しかも屋台骨は崩れかかっている映画産業の衰退期に、加藤幹郎
(1957- ) の言う「映像と音の自己増殖」のみならず、異化効果をも含めた音全体の機能について今一度衣を剥がして洗いなおしてみるのも、廃墟の美学への傾斜との皮肉もあろうがあながち無意味だとは思えない。沈滞、惰性、混迷といわれる現在の映像音が、新たな可能性を見出すエネルギーの蓄積の時代だったと後世評価されるか、または1930-60年代の創造を消耗しただけの時代とみなされるか、興味のあるところである。
本論文では
1) 映画史、及び映画論史の中での聴覚的要素の位置づけ。
2) 映画の構成要素としての聴覚的要素の役割、機能、性格。
3) トータルな映画音響の新たな改革に意欲を持った武満徹の作品を取り上げ、2)の完成度の高い聴覚的要素としての具体的姿を浮かび上がらせて考察する。
以上3点について、映画構造の中の聴覚的要素に焦点を当て、論じてみたい。
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