映画における聴覚的要素の機能 -映像の培養基 音声・環境音・音楽-



映画史および映画論史の中での聴覚的要素の位置づけ
世界の映画史、発生から無声映画の限界まで
世界の映画史、トーキー初期の実験的試み
日本映画の歴史
映画音楽、1950年移行の推移


 

●柴田南雄は「音楽の理解」 (青土社、1987) の中で
1950年代以降を現代音楽の範疇としている。この1950年の後半は、音楽のみならず映画においても、トーキーから30年を経て新たな転機を迎えた時期である。テレビの進出と映画人口の激減に加え、放送界がマグネチック・テープ方式により音の精度を上げ、レコード界はLPレコードとその2チャンネルのステレオ録音という新技術を試みた。音の分野で立ち遅れていた映画界も画面の大型化とともに音の精度に関心を持たざるお得なくなった。標準映画が1 : 1. 37に対し、1952年にシネラマ「これがシネラマだ」では、1 : 2. 88のフィルムを映すスクリーンの映像とスクリーンの裏に5個、客席に18個のスピーカーを取り付けた。立体映画 (3D) のアーチ・オポラー「ブワナの悪魔」 (1952) が登場した。1953年には1 : 2. 55比率画面を持つシネマスコープを開発し、ヘンリー・コスター監督「聖衣」 (The Lobe, 1952) ではスタンダード・サイズの35ミリフィルムの両側にマグネチックの4本トラックを導入し、3本は音響用、1本は音響調節用に使用したステレオフォニックス・サウンドにより音の向上をはかり、フレッド・ジンネマンの音楽は大画面を圧倒するものであったという。1954年ヴィスタヴイジョン、1955年には70ミリ・フィルム使用の「80日間世界一周」は、サウンド・トラックを6本備え、立体音響の再生に力を入れた。また1 : 2. 21のトッドAO方式の「オクラホマ」と次々ワイド・スクリーンへの道を歩み始めたが、一部の映画表現にしか効果はなく、現在は落ち着いたスタンダートなものが主流を占めている。

●1960年代後半になると、映画の衰退と同時に映画音楽も
もオリジナルの映画音楽よりも既成曲に頼るの傾向が目立ってきた。レコード・アルバムのために映画をつくるプロモーション・フィルムも登場する。トーキー以来の重厚な音楽からジャズやロックの軽量化がすすみ、クラシック音楽も多用された。フランシス・コッポラ (Francis Coppola) 「地獄の黙示録」 (1979) では、ゲオルグ・ショルティ指揮、ウィーン・フィルでワーグナー (Richard Wagner, 1813-1883) の「ワルキューレの騎行」が、ロバート・ベントン「クレイマー・クレイマー」ではヴィヴァルディ (Antonio Vivaldi, 1678-1741) の「四季」が使用された。電子音楽も1950年代にはいり本格的に使用され、ロバート・リバース製作「火星探検」ではミュエル・ホフマンのテレミンの起用が最初とされている。

●1980年代に入り、安易なヒット曲の挿入や
内容と無関係につけられ、質が向上したというより批評家の関心の対象から完全に外れ始めた。音もまた電子工学の発達により自由にあやつられるようになった。トーキー時代、音の再生というマイクロフォンの機能にたより、あれほど固執していた同時録音は重要度を失った。ホーム・ビデオで同時録音が一般人にたやすくできる現在、プロとして映画の音をより緻密に考えない限り、映画の芸術としての立場は保持し得ないであろう。

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