映画における聴覚的要素の機能 -映像の培養基 音声・環境音・音楽-




現代における映画の多様性
映像と「音」の関係
20世紀の新ジャンルとしての映画「音」
視覚と聴覚
映画音楽と批評
発源体としての映画の「音」


 

●映画作品は、視覚的要素と聴覚的要素を基本構造とした総合芸術である
視覚的要素として、映画は特異な場合を除いてカメラを媒介とした連続的な映像で成立しており、同様にレンズを通して瞬時を切り取る「写真」との違いは、瞬間の連続としての時間変化の中で表現される点にある。ストップモーションやコマ落としが使用されるのも、連続の中の非連続、その写真的効果に観客の視覚を凝集させるという、二次空間における印刷物のゴシックのごとき有効な手段だからである。映画がほかの芸術と同じく、すぐれて現代をうつし取るゆえんは、映像という動的エネルギーに負うところが多い。
聴覚的要素としては、音声、音楽、環境音で構成されている。これらは固有の時間体験である点で、映像と共通の美的経験を可能にする。

●多くの芸術の起源が人類の発生まで遡って語られ
謎としての神秘性を含んでいる中で、映画は19世紀末、人間が「記録」という武器の行使の可能性の中から生み出された。誕生の記録が即、映画史の1ページとして刻印されるという同時性を持つ歴史の浅い分野である。1世紀を経た今日、芸術は終焉に近づき、科学技術に吸収されつつ、方向を失いかねない勢いで変容を遂げている。その科学技術の申し子ともいえる映画が極楽の王座を占めた時代は短く、栄枯盛衰を短期間のうちに体験したというのが一般的通念である。

●社会的側面から見れば
1960年代の高度成長直後に、公害問題等、極度に1点に集中して矛盾の噴出を見たものが、ある程度の対策がとられたことにより、矛盾をはらんだまま問題意識も拡散した。社会の変動は産業構造にも影響を与えずにはおかない。特に大衆の支持の上に成り立つ映画産業の動向は、社会をそのまま反映している。日本映画について見るならば、急成長の背後に花開いたヤクザ映画全盛の活力は、今やその時代相を反映して多様化の中に拡散していったと見るのが正当であろう。今や映画産業は衰弱の一途をたどり、末期症状が危惧されているが、それはあくまで映画産業としての衰退と見るべきである。

●中間小説が純文学と大衆小説のカテゴライズ
を無意味にしたように、伊丹十三(1933−1997)を代表とする中間映画の出現は、もはや芸術性・大衆性を抜きにした映画鑑賞のスタイルを生んだ。女子大生やOLの「見る行為」は、難解と思われる映画をも進んで軽やかなファッションに衣替えしてみせる。一般社会人には、同時代人としてのコミュニケーション保持のための話題提起として活用され、かつての知識人たちが愛好したということも含めて、映画の芸術性に対するひたむきな信仰に浸る映画青年も存在する。一方、映画を見ない層の代表格として映画制作側のターゲットから完全に外されていた主婦も無視できない存在となった。膨大な宣伝費をバックにした硬派大作に、カルチャーセンターや婦人問題セミナーを通じて、知識欲旺盛な主婦層が団体で久しぶりに映画館に足を向けだしたのである。

●科学のメディアの力により

生み落とされた多くの娯楽が、追い立てられ、より刺激の強い創造の中にすり切れつつ埋没していく中で、映画はあらゆる階層の観客の見えざる要求に対し、生存のための模索を続けている。8月、3月は子供向けアニメというような年中行事的発想は打ち止めにして、拡散された複数のニーズの認識を的確にとらえ、館自体に特色を持たせる時代に入ったというべきであろう。

  映像と「音」の関係 NEXT
  目次 TOP