3. SONY時代
 
「3年経ってもなれなければ、辞めるつもりだった」
 
----------1974年に日本サウンドメーカーとしてトップクラスのSONYとアメリカの CBS レコードの合弁会社、CBS・ソニー(現Sony Music Entertainment)に入社されましたが、お仕事をそこに選ばれた動議は何だったのでしょうか。
 
そうですね。卒業後もなんとか音楽に関係した仕事をしたいとずっと考えていましたね。銀行とか商社とかではあんまり働きたくなかったので。それで、就職を考えた時、放送、出版など幾つかの候補の中から、それぞれの仕事の内容を調べて、一番音楽制作の現場に近いのがレコード会社の制作部門ではないかと思って、いくつかのレコード会社に応募し、実際に試験をうけたのはCBS・ソニーと、もう一社、博報堂という広告代理店を受けて受かりました。でも音楽の仕事をしたかったので、CBS・ソニーの結果が出る前に博報堂の合格は辞退しちゃいました。
 
----------わっ、大胆ですね。
 
博報堂に行ってたら今ごろ何してただろうね。
 
 
----------金子さんの人生の節目だったわけですね。で、CBS・ソニーではどんな仕事をなさりたかったのですか。
 
クラシックの制作プロデューサーになることに決めていました。もし3年たってもなれなければ辞めるつもりでいましたね。始めは大阪営業所でセールスの仕事をしましたが、10ヶ月後には希望とおりのクラシック制作部門に入りました。
 
「異例の1万枚セールス達成」
 
----------いよいよ、やりたいことのスタートに立たれたわけですが、実際にはどんなお仕事をされたのですか。
 
Sony Music Groupにいた27年中、17年半はクラシック制作部門に身を置きました。そこではクラシックレコードの編成(A&R。米CBSの音源から日本でのリリース計画を作り、外国盤に日本版の解説・ジャケットを付ける仕事)、宣伝(プロモーション。リリースした商品をマスコミ、評論家に働きかけて新聞・雑誌の記事、放送等で紹介してもらう仕事)、広告(雑誌等に有料広告を出す計画を作り、広告原稿・版下を作成。また広告費の管理もする)といった、日本のレコード会社の基本的な仕事をすべて経験しましたね。特にプロモーションは得意分野だったかも知れない。
 
----------プロモーションが一番得意というのは、なぜですか。
 
なぜでしょうね。まず僕はおしゃべりでしょ。それと年のわりにフットワークが軽い(笑)。まあ、自分のことは別として、プロモーションで大切なことは、@軽快なフットワークA約束を守ることB人と会うのが好きなことC知ったかぶりをしないことかな。
 
----------勉強になります(笑)。その間も、プロデューサーの夢は持ち続けていらしたのですか。
 
もちろん、僕の目標は録音プロデューサーですからね。そんな仕事を数年間経験したあと、録音制作を目指して具体的な活動を始めたんです。初めて自分の力で実現した録音はオーボエとハープによる小品集でした。そのアルバムをリリースした時は、それまでの僕の仕事でコネクションができていたマスコミの人たちの応援のおかげで、当時のクラシック、それも日本人の演奏のレコードとしては異例の1万枚というセールスを達成したんですよ。
 
----------最初のリリースで、しかも1万枚ですか。それは、すごいですね。どのようなレコードだったのですか。
 
ドイツ・ケルン放送交響楽団首席オーボエ奏者だった宮本文昭さん、彼との録音が僕の初めてのプロデュース作品だったんですよ、1981年ですね。そのころ僕は宮本さんのマネージャーと仕事の付き合いがあって、彼から宮本さんが普通のオーボエのレパートリーのアルバムではなくて、オーボエを聴いたことがない人にも聴いてもらえるようなレコードを作りたがっているということを聞いたんです。僕も以前から宮本さんのコンサートを聴いたこともあるし、素晴しいオーボエ奏者であることは知ってました。後日、宮本さんにもお会いして、彼の人柄に惚れ、考え方にも共鳴したんで、なんとかしてアルバムを実現させよう、と思ったんです。
 
「会社としては当然の反対意見が出た」
 
----------またまた大胆ですね。思うことは簡単ですが、それを実現するというのは並大抵ではないと思うのですが。
 

そのとおりです。最初は、親しくして頂いていた何人かのマスコミ関係者、新聞社の音楽記者や音楽雑誌の編集者に、宮本さんの録音の話をしてみました。そのうちの何人かから、レコードが完成した暁には、紹介記事を書くなどの協力をしてもらえる、という感触を得たんです。それだけではなく、大切なアルバムコンセプト(どんなアルバムを作るか)については、BGMとしても流せるような、ちょっとおしゃれな香りのする気持ちのよいものを、というアイディアをまとめて、ボスに直談判に及んだんです。

周囲からは、「オーボエのソロアルバムが売れる訳ないだろ。宮本さんなんて誰も知らないだろ」という、会社としては当然の反対意見が出ました。それに対する僕の武器は、「朝日新聞と音楽の友と、FMファンが記事を書いてくれるし、FM東京の番組にもゲストで呼んでくれることになっています」だったんです。そこまでマスコミを説得できているなら、ということで僕のプロデュース初体験が実現することになった訳です。

 
----------押の一手てすね。
 
そうですね。そして宮本さんとも何回も話し合いをして、社内の意見も聞いた上で、宮本さんのCBS・ソニー初アルバムは、ハープの篠崎史子さんとの共演で、「フォーレのシシリエンヌ」「タイスの瞑想曲」などの小品を集めたものにしよう、と決まったのです。
 
----------それにしても、1万枚売れれば大ヒットというクラシック音楽界でのアルバム制作で、さっきおっしゃられたマスコミ対策以外に特別な戦略とかはあったのでしょうか。
 
もちろん、マスコミ対策だけでモノが売れるわけはありません。パブリシティの露出(記事や何かが出ること)に連動して広告と営業の戦略が重要です。せっかくマスコミで紹介されても効果的な広告をしなかったり、店頭の目立つところにディスプレイされてなければ売れるチャンスを失ってしまうのだから。適切な時期に適切な媒体に広告を出すこと、店頭に在庫すること、店頭の目立つところにディスプレイすること、POP(Point of purchase)等を作って客の目を引く努力をすること 等々。そういう意味でも、レコードやCDが売れるためには制作、プロモーション、広告、営業が一体となって活動しなければならないのです。
 
「長期的なヴィジョンを持って、アーティストを育てる」
 
----------具体的には、どういうことをなさったんでしょうか。
 
例えば、宮本さんの初CDができ上がってプロモーション活動を始めると、約束通りいくつかの新聞や音楽雑誌がこのレコードの紹介記事や、宮本さんのインタビュー記事を載せてくれました。FM東京でも約束通り彼を番組のゲストに呼んでくれました。そのころのクラシック宣伝の媒体は、専門誌に集中していましたが、“おとなが聴けるファッショナブルなアルバム”(笑)……ちょっと古いなあ、20年近く前だからね、として売り出そうと思った僕たちは、「週間ポスト」などの一般週刊誌、「流行通信」などのファッション誌の編集部にも押しかけて行き、いくつかの、クラシックとは無縁な媒体でこのレコードを紹介してもらうことができました。そのおかげでアルバム「ドリーミング・ストリーム」は、予想を上回る売り上げを示したんです。と言うのは予想があまりにも低かったのですが(笑)、そんな時偶然、テレビ朝日の長寿番組「徹子の部屋」の制作担当者と知り合ったのです。早速その方に宮本さんと彼の新しいアルバムの話をしたところ、トントン拍子に「徹子の部屋」への宮本さんの出演が決まりました。番組の中では、共演のハープの篠崎さんにも協力してもらってアルバムの中の曲を演奏しました。番組が放映されたその日から、このアルバムの売り上げは急速な伸びを示し、アッという間に1万枚を超えたのです。
 
----------ヒットの陰には、多くの方たちの熱意と協力があったんですね。
 
最近ポップスの世界ではミリオンセラー、100万枚のアルバムも珍しくありませんし、クラシックでも何十万、というセールスが出ていますが、今から20年前の、クラシックでの1万枚、というのは大変なヒットだったんです。当時、各社あわせて1年間に500種類くらいのクラシックの新しい録音のアルバムがリリースされる中で、売り上げ1万枚を超えるのは10点くらいだったのではないでしょうか。つまり、僕の場合まずプロモーションで培った人的ネットワークがあって、そのネットワークを活用して、会社を説得して制作にこぎつけた。そして実際に、言った通りの成果を挙げたことで次の制作が可能になった、ということです。要するにこれの繰り返しです。
 
----------クラシック界のCDは、一時的なメガヒットで何百万枚と売れる一過性の使い捨てCDとは違い、長期安定して売れるという利点もあると思います。クラシックの場合、ポップとは違った先を見越した宣伝も必要ではないかと思うのですが、宣伝のポイントは。
 
一口で言うと、長期的なヴィジョンを持ってアーティストを育てるということでしょうか?“育てる”とはおこがましいけど、1枚2枚のCDをワッと売って、あとは知らないよ、という姿勢ではクラシックの仕事はするべきではないと考えます。おおげさに言えばデビューから引退するまで付き合うくらいの覚悟が必要だと思います。現実にはなかなかそうはいかないけど。それで、常にそういう長い視点に立って制作、宣伝の手法を考えていくことです。ただ、最近は世の中がせちがらくなって、クラシックCDの世界も“使い捨て”的手法が蔓延しているように思います。僕がレコード制作の第一線の現場から自ら身を引いたひとつの理由がここにあります。
 
----------そのお話はまた後で詳しくお伺いしたいと思います。1983年には、Yo-Yo Maの「日本のうた」というアルバムのプロデューサーを務められたわけですね。
 
そのアルバムはCSB Masterworks (米CBS)からの委託録音でした。その後もYo-Yoとは1986年にStern, Ax, Laredo とのBrahms: Piano Quartet No.3 を東京で録音する経験もしましたね